2017年11月5日 創発・偶有性・コンティンジェンシー、そして、『擬』
昨晩、紀伊国屋書ホールの『擬』(春秋社)出版記念講演に行きました。
テーマは「もどき仕事」。「松岡正剛師匠」と「いとうせいこう氏」という「せいごう&せいこう」の見事な創発に痺れました。
二人の創発(第18夜、第78夜)の私の印象は、まるで「擬」を擬いているようでした。そこで浮かんだままの感想を綴ります。
近頃の世の中は、グローバル主義により多様化のものが、普遍的、一様的になっていてたいへん息苦しくなっていますね。
世の中が、「普遍」「合理」をめざしすぎると何か大事な忘れものをしてしまうのではないかという問題意識が前提にあるように思います。
子どもの頃の自然、お祭り、職人の匠、会社のリストラ、犯罪、それは、フェリックスガタリの云う「3つのエコロジー」(第9夜)の、社会環境・社会環境・心の環境の各エコゾフィーにもつながってきます。
それは、懐かしさとは違っていて「大切なもの」がどんどん欠け落ちてしまい、「このままでいいのだろうか、否、なんとかしなくてはならない」という感覚です。
これは、主に欧米からの「搾取も含んだグローバル主義」が象徴的です。
「グローバル主義」を代表とする普遍・合理という一様化で、従来の多様化は枯れてきてしまっています。
そのままにしないで、大切なものを拡げ、豊かにしていく方法がないものでしょうか?
どのような方策が、未来・将来への活路としてあるのでしょうか?
それが世の中の「多様化➡ 一様化(グローバル主義・普遍主義)
➡ 別様の可能性」
として見立てになったのでないかと推察しました。
その方法として、「二人の創発」では、日本芸能の「お能や人間浄瑠璃」が提示されました。
そうすると、自分の中では、世阿弥の「複式夢幻能」、「秘すれば花」、「囃子方の打合せ」等々が浮かんできます。また、茶道の「主客一体」にも及びます。
そう、それは首尾一貫性を持ったものではなくて、創発や偶有性、コンティンジェンシーという取組み・方法が俄然意味をもってきます。
それは、本質を捉えようと、「大元(おおもと)を手繰ろう、掴もうとした時に、静的にではなくて、動的に立ち現れてくる」過程(プロセス)です。
それは、そいでそいで本質を捉えるのではなくて、内と外をわけずに、ゴチャマゼにした中から立ち現れてくるもの。
その過程と結果に、グローバル主義・普遍主義を超えるものがある。日本の方法「擬」にはそれがある。
先ず、
①大元、本質を捉えるという主体性があること
②モノゴトを削いだり、分けたりしないで、マゼコゼにして捉える。
③そこから別様の可能性(複雑系・第36夜)が生まれ、その中に守破離も含まれる。それは、創発・偶有性・コンティンジェンシーである。
④それは、「お能・茶道・おもてなし・本歌取り」等々に、「日本の方法」として存在している。
⑤それが「擬を擬く方法」の中心ではないか。
そんなふうに、勝手に妄想・想像・創造しました。
「日本の本来と将来」「価値創造のの本来と将来」という「知」を捉える時に「『擬』-別様の可能性」が大変有効な意味と意義を持つように思いました。
価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ