2018年11月17日 「幽玄」とは何か
前夜は、世阿弥が「風姿花伝」で最も大切にする「花」について綴りました。
本夜は、世阿弥の重要なコンセプトである『幽玄』について、自分なりの解釈を交えて記します。
「ゆうげん【幽玄】を辞書で調べると、《「幽」はかすか、「玄」は奥深い道理の意》
① 奥深い味わいのあること。深い余情のあること。
② 奥深くはかり知ることのできないこと。
③ 優雅なこと。上品でやさしいこと。
「100分de名著」の「世阿弥 風姿花伝」での土屋惠一郎さんの解説は、
---------
なにしろ、すべては「幽玄」でなければならない。乞食姿であっても幽玄をこころがける。狂乱の能であっても幽玄が必要である。
要するに、リアリズムはダメといっている。美しくなければならない。美しいものが能なのだ。
このブランド・イメージを、世阿弥は一代で確立した。能といえば、美しいものになったのだ。期待を裏切らない。美しくないものは登場しない。美しさのためであるならば、たとえ現実とは異なるものであっても、追求してかまわない。どんなに実際と同じであっても、美しくなければ能ではない。そう世阿弥ははっきりといった。
・・・
世阿弥は、「理想の能」を語る時、『幽玄』であるという一点は絶対譲らなかった。
・・・
---------
・玄侑宗久さんは、「幽は“かすか”とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のこと」と語っています。
・松岡正剛師匠は、 「方丈記」では、「幽玄」とは、目には見えないけれども、 そこはかとなく心に感じ入るような感覚が起こることであると説明しています。
『幽玄』の輪郭がみえてきましたね。
世阿弥の確立した「複式夢幻能」は、生者と死者の情念、夢、想いが交じり合う『場(舞台)』『物語』です。
自分は、そのような複式夢幻能の奥に見え隠れする道理・世界が『幽玄』だと想うのです。そこ(分母)から「花(華)」を見せる・魅せる(分子)という構造が腑に落ちます。
整理すると、「幽玄」が分母で、「花」が分子です。そうすると、体系がみえてきます。
さて、「老子の知・陰陽論」(第179夜)に、陰陽の図を載せましたが、「幽玄」と「花」をそこに当てはめてみるとこれもフィットします。
陰陽論では、内へ内へと入ってくる受動的な性質を「陰」、外へ外へと拡大していく動きを「陽」とします。
負を背負った「幽玄(there・死者)」が「陰」で、「花(here・生者)」が「陽」です。
万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す
(訳:世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる)
『冲気(陰と陽の気を作用させること)』が、「複式夢幻能」の後半の見せ場、魅せ場です。
このように、「世阿弥の知」と「老子の知」が繋がることで自分の世界が広がります。
「わかることは変わること」(第8夜)
これが「価値創造&イノベーション」の始まりです。
このように、「風姿花伝」には、「価値創造」に関するヒントが息づいています。
それもあって、次夜は「世阿弥」と「ビジネス」の関係について綴ろうと思います。
価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ