2018年11月21日 「却来」とは何か
「却来(きゃくらい)」とは何でしょうか。
辞書には、「もとの所にもどること」とあります。
「却来」について、松岡正剛師匠の千夜千冊1508夜(世阿弥の稽古哲学〉から引用します。
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さてところで、能を見る者には「目利き」と「目利かず」がいる。目利きは下手な芸を好まない。目利かずは上手を好まず、下手な芸や粗野な芸をよろこぶ。世阿弥はそういう下手な芸を「非風」と名付けた。
いまでも芸能界やお笑いタレントたちの下手くそな芸をよろこぶのは、テレビを見ていればすぐわかる。イラスト業界では「へたうま」さえもてはやされた。当初、世阿弥を悩ませたのは、この目利かずがよろこぶ非風をいったいどうするかということだった。
目利かずを惹きつけてこそ、名手であろう。それなら下手な芸(非風)も稽古する必要があるのだろうか。いや、そうではあるまい。世阿弥は「是風」が非風を抱きこむべきだと考えたのである。それをずばり、「却来」(きゃくらい)といった。
却来は禅語である。禅林では「ぎゃらい」と読む。自身が悟りを得るだけでなく、その得たものをもって俗世におりて人々を悟りに誘う覚悟をすること、それが却来(ぎゃらい)だ。仏教的には菩薩道に近い。
世阿弥は却来(きゃくらい)を禅語よりもかなり柔らかくとらえた。芸を究めた者がすうっと下におりることを意味した。編集工学を究めようとしてきたぼくにとって、却来はすばらしい方法の魂を暗示してくれた。
かくして万端の準備をあらかた了えた世阿弥は、推挙すべき稽古の順に独自な組み立てをしていった。最初は中くらいの芸の稽古から入って、やがて上位に達し、そのうえで最後に下位の芸を習得するという方法だった。
これによって是風が非風を包みこめることを示した。また、そのような気持ちになれることを「衆人愛嬌」といった。
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この「却来」の思想は、「価値創造の知」で連載してきた「守破離」(価値創造・第5夜)、「イノベーション」(第17夜)や「マーケティング」に密接に繋がっていることがわかりますね。
特に「目利かずがよろこぶ非風をいったいどうするか」
というのは、多くの企業や地域が悩んでいるところですね。
それは、「創り手」と「受け手」の双方の課題であり、「創り手」には、「イノベーション(包括)」と「マーケティング(第69夜:伝える力・伝わる力)」の革新が求められます。
>「是風が非風を抱きこむべきだ」
というのがそれに当たります。
そのようなものを遠ざけるのではなくて、むしろ取り入れて自分なりに編集、価値創造をして、新しいモノゴトに仕上げて打ち出していく。
松岡正剛師匠は次に様にも語っています。
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「却来」の思想は、優れた風儀がつまらぬ「なりふり」を一挙に吸収していくことをいう。くだらなさ、つまらなさ、下品さを、対立もせず非難もせず、見捨てもせず、次々に抱握してしまうのである。
なるほど「能」とは、このようにして万象万障に「能(あた)う」ものだったのである。・・・
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図は、「本来・将来・却来」の三位一体を表しています。「却来」を取り込むことで新しい風景が観えてきました。
さて、参考に、上記に関係する自分ゴトを記します。
前職・パイオニア社で、社長直轄の新事業創造室から研究所に異動した時に、社運をかけた「大画面テレビ・プラズマディスプレイ事業」について、シナリオプランニングを使って将来のリスクとチャンスを外部を入れたプロジェクトで検討していました。
・リスクとしては、2004年当時「デル・モデル(デル社がその顧客志向の企業理念に基づいて開発した独自のビジネス・モデル)」が大画面テレビに適用されれば、それは、パイオニア・シャープ・パナソニック等に多大な影響を及ぼす。
つまり、できるだけ早急に「大画面テレビ」市場から撤退したほうがいい、という結論を出しました。結果は、シャープを含め、その通りになりました。
・チャンスとしては、「大画面テレビ」を「インテリアの一部」として把えていこうというものです。そのために、「新事業創造室」時代から、「パイオニア・ダイレクト・モデル」として、物語性を持つインテリアメーカーと異業種コラボレーションをしました。
それは非風ではないのですが、あのビジネスを続けていれば、違った事業展開をして、新しいスタイル、新しい市場を創れたのではないかと思っています。
つまり、「却来の思想」を持つことで、新しい道が拓ける可能性があるということです。
次回は、「却来の思想」に関係する世阿弥の「新結合」について綴ります。
価値創造から「事業創生・地域創生・人財創生」へ
