橋本元司の「価値創造の知・第186夜」:「世阿弥の知・間(ま)と間(あいだ)」⑦

2018年11月27日 間(ま)と価値創造

「間(ま)」については、第17夜(「間(ま)」と「創造」)、第18夜(「間(ま)」から「ご縁」へ)に綴りましたが、本シリーズで世阿弥に触れていると、更に、絶妙な「間(ま)」というものを次々に感じとることができました。

それは、第180夜の松岡正剛師匠主宰「未詳倶楽部」における大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さんとの出会いから始まりました。
その「複式夢幻能」を観ていても、there(彼岸)とhere(此岸)の能舞台の空間(しつらい)の「間」があり、時を超えた情念、さしかかりの時間の「間」があり、そこでの人との関わり、交わりという人間(じんかん)の「間」があります。

みなさん、普段何気に使っている「打合わせ」という言葉の語源をご存知でしょうか。それも「未詳倶楽部」で学びました。
「打合わせ」とは、囃子方がセッション形式で練習することを言います。能楽の楽器は、笛以外、小鼓や大鼓、太鼓が中心です。互いの音を響かせ、間(ま)を確認し合うこと、それが「打合わせ」です。
世阿弥は舞台に臨む能の声について、「一調・二機・三声」と言いました。能の役者というもの、最初にこれから発する声の高さや張りや緩急を、心と体のなかで整え、次にそのような声を出す「機」や「間」を鋭くつかまえて、そして声を出しなさい。そう、指南しました。

いったい、「間(ま)」とは、何でしょうか?

参考に、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説から引用します。
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日本人には間という微妙な意識がある。名人といわれる落語家の語り口は間のうまさが絶妙だし、剣道では間のとり方が勝敗を決する。日常的にもぼんやりして「間が抜ける」と、約束に「間に合わず」、「間の悪い」思いをする、といったように、間ということばの用法は広い。
このような間の意識には、間取りとか隙間(すきま)といった「空間意識の間」と、太鼓の間とか、間を外すといった「時間意識の間」とがある。
まず時間意識の間からみると、リズムとかタイミングともいいかえられるが、日本の間と西洋のリズムの間にはかなり差がある。江戸時代の『南方録(なんぽうろく)』という本は「音楽の拍子でも、合うのはよいが拍子に当たるのは下手だ。雅楽には峯すりの足というのがあって、拍子を打つ瞬間の峯に舞の足の峯が当たらずに、ほんのわずかずらすのが秘伝だ」と述べている。
機械的な正確さで拍子と足が当たるのではなく、間に短があってその微妙なずれが雅楽をよりおもしろく見せるという。

どうやら日本の間にはリズムやタイミングのずれを喜ぶ不規則性が加味されている。しかもたいせつな点は、西洋のリズムは音や動作を伴う拍子そのものが耳に響くが、日本の間は拍子と拍子のあいだの空白を意識する違いがある。
この空白はからっぽの空ではなく、次の拍子への緊張感を充実させた空である。つまり微妙に伸縮する時間の空白が間であり、それは空間意識の間に通じる。
千利休(せんのりきゅう)は絵画のなかに描き残された空白の部分にわびの美があるといった。絵画や文学の余白、余情という無規定、空白の間に美を認める考えは、日本の建築にも表れる。西洋の大建築では、完全な、しかもバランスのとれた設計図があって細部まで決定されて工事が始まる。
しかし日本の代表的建築である桂(かつら)離宮をみると、初めの計画にはなかった2回の増築によって建物はアンバランスに発展し、現在の姿が完成した。初めから増築の余地が予定されていて、余白(間)に新しい意匠を加えて全体が完成される。日本人の空間意識の間には、余白という無規定性あるいは非相称性が含まれる。
では、どこから日本人の間の発想が生じたのか。間の意識の根底には、日本人が自分と他人との関係を非常に重視する思想があるだろう。本来は人々の世界という意味の人間(じんかん)を日本人は人間(にんげん)という意味に転換させたが、それも、人と人との間柄のなかに人は存在しているという意識の表れだった。
相手と自分の微妙な間柄を表現する謙譲語や敬語が異常に発達したのも日本語の特徴である。あるいは世の中を意味する世間ということばを、自己と世の中の間の社会関係として世間体などと使うのも、他者の目をつねに意識する日本人の社会心理である。
このような相手と自分の間柄(間合い)を重視する土着的な日本人の意識が、人間関係の微妙さを表現するさまざまの文化を生み、空間や時間の間に、西洋にはない不規則性や無規定性などの微妙な変化を鑑賞する日本の伝統文化を創造したとみることができよう。
[熊倉功夫]
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・大事なことは何かと何かの「間(あいだ)」にある

それは、次の様に言い換えることができます。

・「価値」は何かと何かの「間(あいだ)」にある(生まれる)

さて、上記では、空間・時間・人間(じんかん)の「間(ま)」と「間(あいだ)」について記しましたが、
第2夜の「おもてなし」では、
①しつらい=ハードウェア
②ふるまい=ソフトウェア(メニュー・プログラム等)
③心づかい=ハートウェア(ヒューマンウェア)
の3つでできていることをお伝えしました。
①②③のそれぞれと、それらの間(あいだ)をまたぐところに『価値』が生まれます。

自分が、ヒット商品、シナリオ、事業創造、会社ご支援時に、とっても大事にしてきた本来と将来の方法です。

さて、「デジタル時代の教養」からの松岡正剛師匠の対談を加筆引用します。
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今なぜ、「またぐ」ことが重要なのでしょうか。
学びの基本は、そうした間を「またぐ」ことにあります。そこから、知るべきことや教養が生まれるんです。例えば、政治と音楽です。まったく関係がなさそうに思えますが、またぐことで見えてくるものがあります。
すべての枠が取り払われ、あるいは垣根がなくなり、知が流動化、液状化しているからです。職能も知の一つですが、たとえば花屋さんを考えてみてください。今の花屋さんは単に花を売るだけではなく、ギフト屋でもあり、ライフコーディネーターでもある。そうなると、花の知識が豊富なだけではやっていけません。知のありようが変わると、職能も変化するわけです。
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「間(ま)」とは、日本人の「空間・時間・人間(じんかん)」のモノ・コト・ヒトの関係性の美意識である、と洞察できます。
それを、いかに上手に①学び接するか、②自分ゴトにするのか、③新しく創るのか、が求められますね。

それが、「価値創造」です。

そのエッセンスが、「世阿弥・風姿花伝」にはいっぱい詰まっています。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
間と間