橋本元司の「価値創造の知・第205夜」:「落合陽一:オープニングレセプション」①

2019年1月29日 デジタルから『質量への憧憬』

『質量への憧憬』というテーマで落合陽一さんから招待状が届きました。
そのオープニングレセプションに、細君と先週末(1/25)に天王洲アイルamana squareに行ってきました。

その視座の一部をご紹介します。
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きっと今の時点での僕は、ここに右脳で捉えたい世界があって、それは質量とデータの間にあるある種のノスタルジアなのだ。憧憬でもある。
データ化する質量のない世界の中で質量のあるものやフィジカルな機能を質量のない世界から見た時に感じる物質性を求めているのだと思う。
デジタルなものは永続性を持つが失われるのも一瞬だ。
エイジングすることもなければ、メディア装置それ自体と切り離されることがほとんどだ。

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このような新しい視座、視点が新しい価値創造に繋がってきます。
それについては後に綴ります。

さて、デジタルとアナログの関係について自分の関わりを記しますが、その内容と今回の視点が結合することで新しい世界が拓けてくるかもしれないのでワクワクしています。

西暦2000年前後の20年ほど前、自分は前職・パイオニア社で、社長直轄で新事業創造に社内横断の開発企画をプロデュースしていました。
そこでは、「アナログ→デジタル」の先を把えること、それがパイオニア社や業界の将来につながるために非常に重要と想い、のめり込んでいました。

結果、その進化の形は、

①アナログ→②デジタル→③キュービタル

と洞察しました。
キュービタルとは、キュービット(量子力学)とデジタルの造語です。

当時のカーナビの将来(車の運転)を検討した時の簡易的な事例では、
①アナログ:実際の運転席で、「次の交差点を右に曲がると六本木」という標識を観て進行先を判断する
②デジタル:カーナビのディスプレイの中にあるデジタル情報を見て、「次の交差点を右に曲がると六本木」という判断をする
③キュービタル:実際の窓の外の風景(アナログ)を見ながら、空間上にデジタル情報(⇒矢印や3次元の疑似車)が浮かび上がり、アナログとデジタルがインタラクティブに融合する世界。

という具合です。そのようなカーメディアが10数年後に発売されました。
それはまだまだ未熟なものでしたが、目を転じると現在スマホを覗いている姿がなくなり、キュービタルな世界に移行していくこと等と同様であり、その進展は間違いありません。
この「キュービタル」という将来世界をいろいろな視点・視座から検討していたのが20年前です。

さて、そのようにデジタルの将来を弁証法(第10夜、第15夜)やシナリオプランニング(第86夜、第147夜)で観ていたのですが、今回のレセプションでは、

①アナログ⇔②デジタル

の「間(ま)」からの視座なのでした。

それは、「②デジタル」を質量のないもの、エージングのないものとして把えて、そこから「①アナログ」を観るというものでした。

「アナログ」には、質量があり、エージングとしての朽ちていくはかなさがあります。
松岡正剛師匠(『日本という方法』引用)によると、
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「はかなし」のハカという言葉はもともと「はかどる」「はかばかしい」などのように「計」や「量」をさす言葉であり、「はかなし」は「はかどらない」という意味だった。
平安時代の女房たちは「はかなし」という言葉の中に美や深みや奥行を発見し始める。「はかなく」ないものなんてないのだと考えるようになった。人生は「はかない」ものよと考えるようになったのである。
しかし、そこに文化的な充実が生起することになるのである。

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そう、「質量」と「はかなさ」は関係があるのです。
「はかなさ」とつながる「面影」「うつろい」「無常」ということが浮かび上がってきますね。
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ウツロイの感覚はやがて、「無常と」シンクロし始める。「無常」とはそもそも「非定常」と云う意味である。
しかし、「無常」というとなにも「あきらめ」のような否定的な厭世感やニヒリズムにばかり結びつくわけではない。「負」や「無」と見えていたものの中から新たな価値が見い出されたりする。
見えていない神々が「影向」したりする。見えないことやマイナスは別のプラスを生む可能性を持っている。この途中のプロセスこそウツロイである。

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そう、それは「wabisabi(詫び寂び)」とも繋がってきます。
次夜は、その辺りを綴ろうと思っています。

価値創造から。「事業創生・地域創生・人財創生」へ

落合陽一①

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