2019年2月16日 桃の節句:祈りとノスタルジア
昨日、姫孫の初節句に向けて写真の親王官女を飾ってきました。
長女が生まれた時のお雛様が孫に引き継がれました。
そこには、桃の節句の伝統の雅さ、華やかさと、健やかに成長して欲しいと願う祈りがありました。
さて、前夜(第205夜)では、落合陽一さんの『質量への憧憬』というテーマについて触れました。
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きっと今の時点での僕は、ここに右脳で捉えたい世界があって、それは質量とデータの間にあるある種のノスタルジアなのだ。憧憬でもある。---
「質量への憧憬」の目指す先は祈りだ。
祈りは実行と形を持たないソフトウェアアップデートだ。精神のチューニングと出力の連続活動かもしれない。---
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そのオープニングレセプションに観えたのは、「無常」「祈り」であり、「wabisabi(詫び寂び)」でした。
その視点で観ると、首記の「お雛様」はどうでしょうか?
そこには、デジタルデータにはない「質量」があります。
そして、出来上がった瞬間から朽ちていく「はかないもの」「フラジャイルなもの」であります。
その「無常」「非定常」に祈りを捧げていく。
それを「無駄」と把える人もいれば、それこそが、「人生の豊穣」と結びつけている人もいます。
ただ人形があるだけでは意味はありません。
そこに桃の節句という過去・伝統と子どもの成長という未来へ「想い」を馳せる、祈るということが込められているということにあります。
デジタルの先のキュービタルの時代(第205夜)には、「節句」というものがこれまで以上の脚光を浴びるかもしれませんね。
さてさて、「wabisabi(詫び寂び)」です。
「ワビサビ」とは上記の「朽ちていく」「欠けていく」「不足している」という「負」の中に想像力を発揮することです。
そこでは、対象が主役ではなくて、対象と自分が「主客一体」となること。
例えば、前職・パイオニア社でかかわった「カラオケ」を見てみましょう。
本来は、フルオーケストラなのに、スターが歌っていた「ボーカル」を抜いてしまった。
その欠けた中に、負の中に、自分(たち)の想像力が自由自在に入り込むのです。
それって、どこかに似たような構図がありましたね。
「枯山水」(第3夜、第170夜)「長谷川等伯の松林図屛風」(第85夜)・・です。
第190夜「芭蕉の知:蕉風開眼の句」も同様です。
それは、受け手側が主人公となって『余白』を任せられるのです。
これからの時代、質量がなく、エイジングのない「デジタル」が私たちの生活環境に根付いています。
それだからこそ、物質性・精神性を伴う「ワビサビ」という美意識が螺旋的発展で脚光を浴びると想います。
そう、その視点・視座が『日本の再興』に繋がってくるという核心・確信があります。
その「本来と将来」を共有して、是非、そこからの革新(『日本の再興』)を実践してゆきましょう。
価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ