2019年 「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」
第205~206夜に、落合陽一さんの「デジタル側から見える質量への憧憬(ノスタルジア)」を綴りました。
そこに見え隠れするのは、「負の想像力」「ワビサビ」でした。それは、「余白・余韻」と深く関わるものでした。
そこで、片方に「デジタル」を置き、もう片方に、「余白・余韻」を置いて結びつけた時に何が未来に現出するのかに関心を持ちました。
その「余白・余韻」ですぐに思いつくのが、「心にてふさぐべし」でした。
それは、松岡正剛師匠主催イベントの連塾(方法日本Ⅱ・第五講)のテーマである「日本美術の美意識」にありました。。
そこの副題は、
「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」(画人:土佐光起)
その第五講から加筆引用します。
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---昭和17年に、板崎坦が『日本画の精神』を書いて、この光起の言葉に注目して、次の様に綴ります。
「この白紙をさへ描写以上の描写とする尊むべき省略法は日本画独特の技法であり、又この中にこそ本邦画論創始者の思ひをふくますべしといふ意味が潜んで居るのである」と。
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さて、では、この「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」とは、どういうものなのでしょうか。
普通に想像すると、これは余白の多い絵のことかなと思いますね。むろん、それもあります。ヨーロッパの絵画はルネサンスから印象派まで、びっしりと画面を埋めていますし、人物画の多くも背景を描き込みます。
それに対して日本の肖像画は、藤原隆信の『源頼朝像』などの似絵がそうですが、背景がない。それだけでなく大和絵の歴史はしだいに余白を持つようになり、長谷川等伯の『松林図』などでみずみずしいほどの余白を描きました。ーーー
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長谷川等伯の『松林図屛風』については、第85夜「深い知」に綴りました。
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—もう少し説明します。これは、「第33夜・禅と価値創造③」の内容とダブります。日本人がもっとも得意としているのは「引くこと」。
アルコールフリーのビール系飲料は「ビールからいちばん大事なアルコールを抜いた」ものだし、NHKのアンケートで「見たい国宝」の1位になった長谷川等伯の『松林図屏風』は西洋画のようにびっしりと描き込むことがなく、見る者がその世界に入り込める余白が設けてあります。
龍安寺石庭に代表される枯山水は「水を感じる」ためにあえて水を抜いてある。カラオケもまた「歌=ボーカル」という大切なものを抜いたことで大ヒットし、ひとつの文化となりました。
これらはすべて「禅の思想」。執着や先入観といったものを取り払う、あるいはいちばん大事なものを手放す。そうすることで『深い知』=「抽象化能力」が身につきます。—
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写真は、九品仏・浄真寺の枯山水ですが、『負の想像力』のその人のレベルによって感じ方は変わってきます。
自分でも、朝早くや夕暮れ、或は春夏秋冬や自分のコンディションで変わってくることを経験してきました。
「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」
カラオケもボーカルがなくなり、白紙の状態と同じです。
そこに、自分の想いや祈りを込めて、心を使っているのではないでしょうか。
「行間を読む」
というのも同じですね。
さて、私たちのテレビとの付き合い方を見てみましょう。
仕事で疲れて帰ってきて、もう神経を、頭を使いたくないのですね。頭を使わなくていいように制作されています。
翻って、詩・俳句・小説やオーディオは如何でしょう?
オーディオにはビジュアルがないので「想像力」を働かせることが必要です。
詩・俳句・小説では、さらにもっと「想像力」と「知性・感性」を働かせることが必要です。
そこに『豊かさ』があります。
『デジタル』の進展で、五感により近いコンテンツが届くようになりました。それは素晴らしいことです。「デジタル」の先には「キュービタル」(第40夜、第205夜)があります。
ただその反面で、私たちの「感性・知性・心性」は鈍ってきたのは事実です。ここが大問題ですね。
『デジタル/キュービタル』と『余白・余韻』を新結合(第32夜、第75夜)するところに新しい価値が生まれてきます。
それは、第17夜(「間(ま)」と「創造」)の価値創造ダイアグラムにA(『デジタル/キュービタル』)とB(『余白・余韻』)を置いて、③STRIKE を導き出します。
その時に必要なのは、①問題・課題という意識、②大切なコト、③物語 です。
これを洞察してみると幾つかの将来・未来が観えてきました。
価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ