橋本元司の「価値創造の知・第182夜」:「世阿弥の知・幽玄と花」③

2018年11月17日 「幽玄」とは何か

前夜は、世阿弥が「風姿花伝」で最も大切にする「花」について綴りました。
本夜は、世阿弥の重要なコンセプトである『幽玄』について、自分なりの解釈を交えて記します。

「ゆうげん【幽玄】を辞書で調べると、《「幽」はかすか、「玄」は奥深い道理の意》
① 奥深い味わいのあること。深い余情のあること。
② 奥深くはかり知ることのできないこと。
③ 優雅なこと。上品でやさしいこと。

「100分de名著」の「世阿弥 風姿花伝」での土屋惠一郎さんの解説は、
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なにしろ、すべては「幽玄」でなければならない。乞食姿であっても幽玄をこころがける。狂乱の能であっても幽玄が必要である。
要するに、リアリズムはダメといっている。美しくなければならない。美しいものが能なのだ。
このブランド・イメージを、世阿弥は一代で確立した。能といえば、美しいものになったのだ。期待を裏切らない。美しくないものは登場しない。美しさのためであるならば、たとえ現実とは異なるものであっても、追求してかまわない。どんなに実際と同じであっても、美しくなければ能ではない。そう世阿弥ははっきりといった。
・・・
世阿弥は、「理想の能」を語る時、『幽玄』であるという一点は絶対譲らなかった。
・・・
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・玄侑宗久さんは、「幽は“かすか”とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のこと」と語っています。
・松岡正剛師匠は、 「方丈記」では、「幽玄」とは、目には見えないけれども、 そこはかとなく心に感じ入るような感覚が起こることであると説明しています。

『幽玄』の輪郭がみえてきましたね。

世阿弥の確立した「複式夢幻能」は、生者と死者の情念、夢、想いが交じり合う『場(舞台)』『物語』です。
自分は、そのような複式夢幻能の奥に見え隠れする道理・世界が『幽玄』だと想うのです。そこ(分母)から「花(華)」を見せる・魅せる(分子)という構造が腑に落ちます。
整理すると、「幽玄」が分母で、「花」が分子です。そうすると、体系がみえてきます。

さて、「老子の知・陰陽論」(第179夜)に、陰陽の図を載せましたが、「幽玄」と「花」をそこに当てはめてみるとこれもフィットします。
陰陽論では、内へ内へと入ってくる受動的な性質を「陰」、外へ外へと拡大していく動きを「陽」とします。
負を背負った「幽玄(there・死者)」が「陰」で、「花(here・生者)」が「陽」です。

万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す
(訳:世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる)

『冲気(陰と陽の気を作用させること)』が、「複式夢幻能」の後半の見せ場、魅せ場です。
このように、「世阿弥の知」と「老子の知」が繋がることで自分の世界が広がります。

「わかることは変わること」(第8夜)
これが「価値創造&イノベーション」の始まりです。

このように、「風姿花伝」には、「価値創造」に関するヒントが息づいています。
それもあって、次夜は「世阿弥」と「ビジネス」の関係について綴ろうと思います。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ

世阿弥③

橋本元司の「価値創造の知・第181夜」:「世阿弥の知・風姿花伝」②

2018年11月15日 風姿花伝の「花」とは、「価値」のことである。

2014年新春に、NHKの「100分de名著」という番組で「世阿弥 風姿花伝」が放送されました。
そこでの土屋惠一郎さんの解説が、現代の問題や「イノベーション&マーケティング」に参考となるとても刺激的な内容でした。
それは、前職・パイオニア社での革新活動ともマッチングするものであり、現職のコンサルティングにも活用できるものでした。
放送の一部を加筆引用します。

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・・・
ドラッカーはその代表作『マネジメント』の中で、イノベーションとは
・「物事の新しい切り口や活用法を創造することだ」
と語っています。

・・・
一方世阿弥は、
・「人々を感動させる仕組みとして新しいものや珍しいものこそ花である」、
すなわち「珍しきが花」
ということを語っています。
これは文字通り、「珍しいものに人は感動する」ということです。

この「珍しきが花」が腑に落ちた時、そうか、これこそがドラッカーの語るイノベーション理論なのではないかと気づいたのです。
・・・

世阿弥の言葉は、現代の競争社会を生きる私たちにとっても有効なメッセージを伝えてくれる。私はそう感じています。
世阿弥が生きた室町時代も、のちに戦国時代へと突入する不安定な時代でした。能を取り巻く環境も、安定した秩序を重んじるものから「人気」という不安定なものに左右される競争に移っていった時代です。

そのような時代を生きた世阿弥の言葉は、同じように不安定な現代を生きる私たちにたくさんのヒントをくれます。
しかも、世阿弥の言葉は驚くほどわかりやすいのです。注釈や現代語訳がなくとも、大意はそのままつかむことができます。

・・・

『風姿花伝』は、世阿弥が父から受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書いたものです。
それは、能役者にとってのみ役立つ演技論や、視野の狭い芸術論にとどまってはいません。世阿弥は、能を語る時に世界を一つのマーケットとしてとらえ、その中でどう振る舞い、どう勝って生き残るかを語っています。つまり、『風姿花伝』は、芸術という市場をどう勝ち抜いていくかを記した戦略論でもあるのです。
そこには、イノベーションとマーケティング心得と方法のヒントがいっぱい詰まっています。

さて、この「価値創造の知」連載で綴ってきましたように、

「工業・情業時代→脳業(AI)・興業時代(第109夜、第169夜)」

へとパラダイム(枠組み)が大きく変わる不安定な時代を私たちは生きています。
是非、多くの方達に「能&世阿弥」を体感して欲しいと想っています。

そして前夜にも記しましたが、自分の解釈では、『風姿花伝』の『花』とは、「価値、及び、価値創造」のことを指している、と云い切ります。
その切り口で読み解くと、「世阿弥」が「風姿花伝」が頭と心身に入ってつながって現代に甦ってきます。
さてさて、世阿弥は「能」にとってもっとも大切なものを「花」という言葉で象徴しました。
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」

・秘すれば花(価値)
・珍しきが花(価値)
・新しきが花(価値)

謡、踊り、囃子、装束、物語、舞台のどこかしこに「花(華)」が見え隠れしています。
もし、可能であれば、幽玄の能舞台で世阿弥と対話してみたい。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
世阿弥2

橋本元司の「価値創造の知・第180夜」:「世阿弥の知」①

2018年11月14日 能と価値創造

世阿弥は、室町時代に『能』を大成した人物として知られています。
『風姿花伝』は有名ですが、その「花」とは「価値創造」のことを云っています。
本夜から、世阿弥の知を「能と価値創造」の関係で綴っていきます。

『能』と自分との本格的出逢いは、松岡正剛師匠主宰の「未詳倶楽部」にありました。
・1回目は、大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さん
・2回目は、安田登(やすだ のぼる)さん(下掛宝生流ワキ方能楽師)

2000年、未詳倶楽部の特別ゲストが、囃子大倉流大鼓方能楽師の人間国宝・大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さんという大鼓(おおつづみ)打ち手の達人でした。
初日の深夜の空間では、自分から2メートルの至近距離から、大倉さんのソロの大鼓(おおつづみ)が響きました。その「幽玄」を身をもって堪能しました。
2日目は、大鼓(おおつづみ)を素手で打たせてもらうという体験もしました。「響打」の奥義がほんの少し体感できたように想いました。

その興奮を持って、2000年8月8日、大倉さんと松岡正剛師匠がプロデュースする「五番能」(五番立)と呼ばれる本格的な形式での能公演(宝生能楽堂)に行きました。

「翁附五流五番能」に寄せた松岡正剛師匠のテキストを引用します。
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「観能から官能へ~こんな一部始終を見てみたかった」松岡正剛(編集工学研究所所長)

いまどき五番能が見られるだけでも珍しい。
それが五流が揃い、さらに「翁」が付いている。
神事から始まって、しだいに修羅へ、切に突き進む。
異例中の異例な出来事だといってよい。
その翁附五流五番能を、一度も演能祭事のどこにもかかわったこともない私が、なんとも提供する側になるとはおもわなかった。

すべては大倉正之助の六輪一露なのである。
いやいや二輪双輪のエネルギーが飛び散ったせいである。
細部に関してはまことに面食らうばかりであるが、ただただ大倉正之助の邁進の企画に呼応して、拍子を合わせた。
はからずも打ち合わせたというしかない。
なにしろたった一人で大鼓を打ち続けようというのだから、これは放っておけぬのである。
しかし、一介の囃子方にすぎない大倉正之助の魂が実現させたこの五流五番能は、前代未聞の試みでありながらも、実は能を初めて見るような人々にこそ開かれている。
私としては、これを機会に能狂言の持つ意味が一途に見所にいる人々の心を奪っていくことを願ってやまない。
そこには「日本」というもののいっさいの不思議が現前に漂泊しているからだ。

実は能というもの、まことに不合理にできている。
ありていにいえば不便にできている。
たとえば面は、わずかに前方は見えるものの、他の視界を許さない。
その面の動作もテル・クモル・キルなど、ごくわずかな動きに限定されている。
音楽としてとらえてみても、小鼓は湿らせなければいい音が出ないし、大鼓は焙じて乾かす必要がある。
だいいち、アンサンブルとしての基準音は最初の能管の一吹きがあるまでは、決まらない。
こんな音楽は西洋の合理では考えられないことである。
リズムとしての拍子だって、大きなフレーズごとにインとアウトが決まっているものの、あいだはまちまちである。
だからこそ、そこに間というものが躍り出す。
一調二機三声が動き出す。

登場人物も、多くが現在にはいないことによって現在を示すというような、そんな奇妙な設定の中にいる。
そこで、そこには現代哲学こそが主題にしそうな「不在の時間」というものが出現するのだが、ではその時間が舞台をそのまま支配するのかというと、その不在すらもあとかたもなく消えていく。
舞の基本もカマエとハコビだけである。
そんなことでよくも感情が表現できると思うだろうが、けれども、そこにヒラキが加わるだけでも、引きつめた緊張は横超し、悲嘆は爆風をおこすかのようなのだ。
装束もまた、そのようなあまりにも省かれた劇空間と劇時間を暗示するかのように、長絹・舞衣・狩衣・直衣のいずれもが、行方定めぬ風をはらむばかりとなっている。

こうした不合理や不便を象徴しているのが能舞台そのものであり、能なのである。
その不便をわずかなキマリが支えている。
たとえば、橋からやってきた者は橋から去っていく。
これは、かれらが彼方からの去来者であることを訴える。
たとえば五番能の二番目は修羅能というものであるが、これは世阿弥が二曲三体と言った、その老体・女体・軍体のうちの軍体を見せている。
修羅の能は平家物語を背景とした「いくさがたり」がルーツなのである。
もっと単純なことをいえば、だいたい舞台は誰も隠れるところがない。
すべては見所から見通しであって、そこには真の意味での「一部始終」というものがあるばかりなのだ。
しかしそれゆえにこそ、キマリは奥深くなっていく。
いっさいのキマリが見えているようで見えていず、見えないようであらわれてくる。
その僅かな出処進退が、能舞台をおそろしく絢爛とも、幽玄とも、またヴァーチャル・リアルともさせるのである。
そのダイナミックな有為転変は、不合理や不便によって生まれたのであった。
私は、その奇妙な矛盾の解放をこそ見てほしいとおもう。
そこに能狂言が培ってきた乾坤一擲の「存在の告示」があることを見てほしい。
それこそがいま「日本」に欠けているものなのである。

ところで今日の演目には、いずれの物語にも「水」がからんでいる。
この「水」は流れであって、生命の若水であり、そして自然と人知を循環する媒体である。
大倉正之助が八年前に、これらの水を湛えた演目をしたかったという意志をもったことにちなみ、今日の一日を「如水の昼夜」とよぶことにした。

また、今日一日の出来事には、人機が一体となって感応するオートバイの魂のようなものが、そこかしこに象徴化されている。
なぜ能とオートバイが重なったのかということをここで述べている紙数はないが、きっと今日の日が終わるまでには、その人機一体の官能が実は観能でもありうることを、ひたひたと感じられるのではないかとおもう。
私が、早朝の「翁」が始まる前に言えることはねいま、これだけである。
いろいろな「一部始終」を観能し、官能し、堪能していただきたい。

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上記のテキストを見ることだけでも、深み・高み・広みが伝わってきますね。
プロデュースされた『別格の一流』を観能し、官能し、堪能してきました。
そのような直截的・直観的な体験と知が、「価値創造」には肝要です。

さて、「能」舞台の橋の向こう側は、there・彼岸です。
複式夢幻能において、能舞台は、死者と生者が交じり合っている「場」なのです。
舞台の正面には、「松」の絵が描かれていますが、ということは観客席は「海」にいることになります。つまり、私たち観客は、there・彼岸から観ているのです。
そのような「しつらい」を認識して身を置いて「能」に対した時に、目の前の風景・情景が変わってきます。
そこには、「生と死」の狭間の情念と夢と想像が行き交います。

本夜は、世阿弥のことは、まだ記していません。
自分にとっての「能」との切っ掛けから綴りました。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
世阿弥

橋本元司の「価値創造の知・第179夜」:古典「老子の知・陰陽論」③

2018年11月12日 「間(ま)と陰陽」の関係

万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す
(訳:世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる)

老子・第42章では、価値創造の核となる「新結合」(第32夜:イノベーションと価値創造)の極意が著されていました。
それは、即イノベーションに直結します。

それでは「陰陽」を現代の事象でみてみましょう。、
・「ビール」に於いて、「コク」と「キレ」は矛盾します。
・「サービス」に於いて、価格(安さ)と品質(時間)は矛盾します。
・「労働生産性」に於ける、労働時間と生産性は矛盾します。
・・・

相反するモノゴトを新結合することで、新しい価値は創出されます。多くの業界が直面している課題ですね。
自分の会社や地域に置き換えて考えてみてください。

さて、第17夜には、「間(ま)」と「創造」の関係性について記しましたが、同じことを云っています。
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①第17夜:「間(ま)」とは何でしょうか?
・・・
「間」は日本独特の観念です。ただ、古代初期の日本では「ま」には「間」ではなく、「真」の文字が充てられていました。

真理・真言・真剣・真相・・・

その「真」のコンセプトは「二」を意味していて、それも一の次の序数としての二ではなく、一と一が両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたそうです。
「真」を成立させるもともとの「一」は「片」と呼ばれていてこの片が別の片と組み合わさって「真」になろうとする。「二」である「真」はその内側に2つの「片」を含んでいるのです。

それなら片方と片方を取り出してみたらどうなるか。その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間」なのです。
・・・
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②老子・[第42章]
道生一、一生二、二生三、三生萬物。
萬物負陰而抱陽、冲気以為和。
(道一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す)

(前半の)最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したのが「一」としての気。
さらにそれが陰陽の二つに分かれて、「二」となり、冲気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」となり、そこから萬物が生まれてくる。
「無」からすべてが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、
なにもないのではなく、ありとあらゆる可能性を含み持つ状態だとしたのです。(訳:蜂谷邦雄)

(後半)世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、
こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる。
(古代中国で生まれた自然哲学の基礎概念に「陰陽論」というものがあります。万物には、「陰」と「陽」という背反する二つの側面が必ず存在しているという考え方です。
陰陽論では、内へ内へと入ってくる受動的な性質を「陰」、外へ外へと拡大していく動きを「陽」とします。
世の中に「存在しているもの」あるいは「起こっている現象」というのは、すべて陰陽後半双方の性質を持っており、当然よい面もあれば、悪い面もあり、よい時期があれば、悪い時期もある。そうした構造になっているのです。
これが陰陽論の基本的な考え方です)訳:田口佳史
・・・
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①「間(ま)」と、②「道生一、一生二((道一を生じ、一は二を生じ)」とは根本で同じことを云っているのが分かりますね。

「矛盾する、相反する二つの要素が交じり合う、紛らかすことで価値が生まれる」

というのが価値創造の重要な視点です。

近代西洋的思想は、モノゴトを部分化、細分化、論理化した二者択一的な発想でした。
そうやって、物不足の20世紀後半の成長がありました。

21世紀の成長には、西洋思想に不足している下記の「知の意識改革」が必要です。

それは、日本流の
・間(ま)
・縁

・禅
・和
・おもてなし
という空間、時間、心が交じり合う世界です。
それは、日本文化の「宝」であり、価値創造の「源」です。

これまでの「価値創造の知」連載に綴ってきました。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
陰陽

橋本元司の「価値創造の知・第178夜」:古典「老子の知、孔子の知」②

2018年11月11日 老子と孔子

自分の場合は、「道(タオ)」とは、すべてのモノゴトの「大元:天地万物を生み出す原理(=空=道)」と読み解くと「老子思想」がすんなりと入ってきました。
第6夜に綴った「色即是空 空即是色」の「空(クウ)」が「道(タオ)」と同一だと見切った時に、釈迦と老子の新しいつながり、新しい知が芽生えます。

柔道、剣道、相撲道、茶道、華道等々、私たちが普段目にする「・・道」というのもそこにつながるように思いませんか。

それは私たちの生き方の根本なので、「老子思想」を読むと、現在のモノゴトの見方を超えた「新しい視点・視座」に気づかせてくれます。
それは「深い知」(第77夜、第85夜)であり、奥を究めることでもあります。その事例、参考例は、第28夜(新しい目的をつくる)、第170夜(Think outside the box:箱を出る)に綴りました。
とっつきにくかった「老子」が、「道(タオ)」を語りかけてくれるようで、2千数百年をタイムスリップして親近感を覚えます。

さて、同時代を生きていた「孔子」と「老子」を自分なりの視点で並べてみました。

◆「老子」
①道家:自然に、あるがままに生きること
②思想:負(引いて、削いでいく)
③活用時期:衰退期~新導入期(オルタナティブ)
④書物:哲学書

◆「孔子」
①儒家:理想に向かい現実的に生きること
②思想:礼(定まった形式を重んじる)
③活用時期:成長期~成熟期
④書物:実用書

新しい気づきがありワクワクしましたこのような連想が数寄なのです。

「孔子」は、自分が中学や高校の時に、教科書でよく見かけました。
「人は努力によって進歩すれば、必ずいつか報われる」

1960年代の「高度成長期」の様に、何をするべきか見えている「成長期」に「孔子」は向いていたように思います。御茶ノ水駅近くの「孔子廟 湯島聖堂」にも行きました。

さて、日本の企業は、高度成長から成熟・衰退に向かい、現在は、脳業(AI・Robot)・興業に向かうパラダイムシフト(第7夜、第109夜:農業⇒工業⇒情業⇒脳業⇒興業の時代)の真っ只中にいます。
このような時代にフィットしているのは、「老子」「釈迦」のように直感します。

なぜならば、それはあらゆる考え方の大元(おおもと)であり、源泉が変革期にはどうしても必要だからです。。

「老子」と「孔子」はどちらが優れているということではありません。思想としての軸足が違うので比較するのは適当ではありません。

さてさて、「老子」は、「老子道徳経」とも呼ばれていて、「道(タオ)」だけでなく、「徳(トク)」についても記されています。
企業からのご支援では、『次の一手』を検討する際に、すべてのモノゴトの「大元:天地万物を生み出す原理」(=深い知)に想いをめぐらします。

その時に肝要の指針が『真善美』です。

「人に役立つ、社会に役立つ」

という「価値創造の原点」に向かうときに『徳』が内包されています。

「真善美」に至り、そこから「構想・行動・実践」に向かう時に必要になるのが『徳』です。「道」と「徳」は、思想と行動の合わせ鏡です。
双方に立ち向かい実践できる会社が、これからの「真の21世紀企業」です。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
老子と孔子

橋本元司の「価値創造の知・第177夜」:古典「老子の知」①

2018年11月9日 「道(タオ)」とは何か?

本夜は「老子」を取り上げます。
「価値創造の知」と、深いつながりがある思想哲学です。。

「老子」と云えば、「道(タオ)」が根本ですね。この本質をどうシンプルに把えるかで観える世界がまるで変わります。
「道(タオ)」とは何でしょうか?

「真理、理想、大、混沌の運動・・・」等々、多くの訳(やく)があるですが、そのことで訳(わけ)が分からなくなります。
それは、般若心経の「空」や「無」についても同様(第6夜)でした。「無」を「ない」と解釈すると間違います。

[第42章]
道生一、一生二、二生三、三生萬物。
萬物負陰而抱陽、冲気以為和。
(道一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す)

(前半の)最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したのが「一」としての気。
さらにそれが陰陽の二つに分かれて、「二」となり、冲気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」となり、そこから萬物が生まれてくる。
「無」からすべてが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、
なにもないのではなく、ありとあらゆる可能性を含み持つ状態だとしたのです。(訳:蜂谷邦雄)

(後半)世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、
こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる。(訳:田口佳史)

価値創造の知・第6夜に、「色即是空・空即是色」の自分の見解を綴りました。
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「色即是空」というのは、「現実=色」に問題・課題があるのなら、先ず心を無にして、「大元=空=大切なこと=真心」に戻りなさいと教えてくれているように思います。
そして、「空=大元=真心」に戻って従来のしがらみや常識から解き放たれて、その本質(=コンセプト=核心)を把えてから「現実=色」を観ると新しい世界(=現実=色=確信)が観えるということではないでしょうか。その確信を革新するのがイノベーションであり価値創造です。
スティーブジョブズは、禅寺に通っていたことを知った時に、「iPhone」は「核心→確信→革新」に至ったと確信しました。
だから、「色即是空」「空即是色」と繰り返しているのです。「色」と「空」が同じであれば、繰り返す必要はないのです。「色即是空」と「空即是色」の「色」は異なるものです。
さて、超越瞑想や禅に入ると、「無」は「何もない」ということではなく、「遠ざける・気にしない」という意味だと体感できます。・・・
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「般若心経」と「老子・第42章」を並べてみると、般若心経の「空(クウ)」と「老子」の「道(タオ)」が全く同じことを云っていることが分かります。

「道(タオ)」とは、すべてのモノゴトの「大元:天地万物を生み出す原理(=空=道)」です。

その様に読み解くことで、般若心経も老子もすっきりと頭と心に入ってきます。

つまり、「空」「無」「道」をどのように解釈するかで、モノゴトの本質にたどり着けます。
(「空」や「無」をないものとするのは間違いです)
そしてそれは、そのまま「価値創造の知」「イノベーション」の道でもあります。

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夫れ物芸芸たるも、各々その根に復帰す。
(訳:田口佳史):いろいろな問題が、葉が生い茂るように発生するけれども、すべては根に帰る。「根」すなわち「根本」に立ち返れば、解決が見えてくる。
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学を為す者は日に益し、道を為す者は日に損す。之を損し又た損し、以て無為に至る。無為にして而も為さざる無し。
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雑念や欲望や枝葉を遠ざけて、「大元」に戻ることで「新時代の価値」(第33夜、第66夜、第85夜)が観えてきます。
それは、トリニティイノベーションの3本の矢の一本目(=深い知)。

「般若心経」「老子」は、事業、地域、社会、人生の問題・課題の全ての前提、土台、分母となり解決に向かう思想哲学です。それは、あらゆる考え方の大元(おおもと)であり、源泉です。

本夜は、前半の「道(タオ)」が大切にすること、本質を綴りました。
次夜は、後半部(陰陽)と孔子との関係を考察します。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
老子

橋本元司の「価値創造の知・第176夜」:古典「ヘーゲルの知」

2018年11月2日 インテリジェンスとは?

仙台に、「知の旅」に出遊してきました。松岡正剛師匠が亭主の「知の倶楽部」(第26夜)です。
現在は不定期開催なのですが、今回は「佐藤優さん」というとびきりのゲスト。

「知の巨人」と「知の怪人」が語り合う2日間の秘密倶楽部は、間違いなく格別・別格の時空間でした。

メインテーマは、「インテリジェンス」

そのテーマを基盤として、松岡さんと佐藤さんが重なり合い、真と間を創発し、生成してゆきました。

多くの気付きと学びと更新がありました。
この倶楽部では、毎回「超一流」を体験して、それが自分の財産と精神になっています。
それらをより多くの方達に伝え、広めるのも自分の務めなのだと思います。

この「価値創造の知」連載もその一環です。

さて、「知の旅」の終盤で、自分の相談ゴトに松岡師匠からは、

「古典を読むことで観えることが多くある」

と、助言がありました。

今回の倶楽部では、佐藤さんから「知(インテリジェンス)の使い方」の徹底指南がありました。
佐藤さんの著書である「知の操縦法」を読むと、後半の多くが、古典ヘーゲルの知「精神現象学」に割かれていました。
そこには、古典と付き合う作法と心得が記されていました。

ヘーゲル思想の主線は、
①人間本質論つまり人間的欲望の本質論がおかれ、
②ここから、人間本質論がおかれ
③ここから人間関係の本質論が立てられ、
④さらにこれが歴史論に展開され、
⑤そして、近代社会の基本理念に達する
という仕方で進んでいます。

新価値創造研究所の価値創造三本柱の一本が「ヘーゲルの弁証法」を元に編集していますが、これまで本元の「ヘーゲル思想」に立ち入ることはしていませんでした。(他の二本は、「禅の思想」と「間の思想」です)

佐藤優さんは云います。
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「なぜ、ヘーゲルのように難しくて、資格や語学みたく人生に直接的に役立たない面倒くさい本を読み解いていかねばならないのかと思う人もいるかもしれません。
しかし、ヘーゲルのような古典こそ、現実の出来事を具体的にみていくうえで役に立つのです。
すでに述べましたが、実用的なノウハウは使える用途が限られているので、そのような断片的な知識をいくら身につけても、長期的には役立ちません。
根源的な知を身につけ思考の土台を作り、実際に役立つところまで落とし込んでいくことが求められています。・・・

ヘーゲルのような古典哲学を読み解いていくには、まず解説書を読み、全体像を掴んでからのほうが、頭に入りやすくなります。・・・
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実は、写真の「完全解説・ヘーゲル精神現象学」をなぜか10年前に池袋の本屋で購入していました。ところが、ぜんぜん頭に入らなかったのです。
今回の倶楽部で、インテリジェンスを多面的に学び、「知の操縦法」で古典哲学の読み解き方を知ることで、

完全解説・ヘーゲル「精神現象学」
第1章:意識
第2章:自己意識
第3章:理性
第4章:精神
第5章:宗教
第6章:絶対知

に分け入ることができるようになりました。

これも不思議で格別のご縁(第19夜)です。

このことで、自分の知が深まり、高まり、広がることで、更新した「知」を社会、世間に贈与、貢献したいと思います。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ

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