橋本元司の「価値創造の知」第331夜:『数寄』が新しい全体を創る

2024年12月15日 『数寄』と『価値創造』 

 前夜は、「15代樂吉左衛門」さんを通じて、「守破離」と「侘・寂・遊」(ワビ・サビ・スサビ)の本質を綴りました。
それは、「価値創造の知」の真髄であり「日本人の美意識」です。

 さて、松岡正剛師匠が『数寄』という言葉を、未詳倶楽部の遊行の先々でよく説明されていました。
「九鬼周造が『いき』の構造と言うけれど、あれは『数寄』の構造といったほうがいい」とも。
私の中では、『数寄』と『いき』の二つが初めてつながって大きく頷いたのでした。

 それでは、スサビから『数寄』につながるプロセスを正剛師匠の「日本文化の核心」から引用させてもらいます。
「『数寄』が『価値創造』実現に大きな役割を果たすコト」を私は無自覚に想っていたので、本夜の中で紐解いていきたいと思います。

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・・・「すさぶ」と「あそぶ」は重なり、『何か別のことに夢中になること』がスサビとして認識されました。
今日でも仕事に対して遊びがあり、なすべき中心から逸れて気の向くままに何かをするのが、遊びであって荒ぶということです。
「さび」はスサビから出た言葉で、「夢中になるほどの趣きがあるのだろうなと思わせる風情」を示す言葉です。

・・・文芸、遊芸、武芸や芸能の場面で、スサビに徹していくことを、またそのスサビの表現や気分を鑑賞して互いに遊べる感覚のことを、
総称して『数寄』とか『数寄の心』といいます。
 何かを好きになり、その好きになったことに集中し、「その遊び方に独特の『美』を感知しようとしていくこと」、それが『数寄』です。
そういう数寄にかかわりたくなった者たちは「数寄者」といいます。

 もともとは「好き」とか「好きになる」から出た言葉だったと思いますが、もう少し大事なニュアンスをこめて言うと、
「すく」とは何かによって梳っていくことなのです。「土を鋤く」「髪を梳く」「風が透く」「木を剝く」「心を空く」というような数寄でもあるのです。
これらは、「もの」やその「あらわれ」をたんに扱うのではなく、さまざまな「スクリーニング」を通して感じていこうという感覚です。

・・・「スサビ」も「数寄」も物事に執着することです。こだわることです。
こだわりすぎることは何かの発展を妨げることもある。それゆえ仏教では何かに固執することを「執着(しゅうじゃく)」と言って強くいましめます。
 しかし、この執着をあえて「好きなもの」として徹底し、何かに執着する態度に一転して「美」を見出すことが、日本においては連続したのです。
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 さて、前夜に、「第15代・樂吉左衛門」さんを通して、「守破離」「侘・寂・遊」を綴りました。
さまざまなスクリーニングを通して、『樂吉左衛門数寄』作品に向かっていたことは間違いありません。
、一子相伝で受け継がれる樂家の伝統には、『数寄の心』が必然のように思いました。
 それを「2+1」で表したいと思います。


「数寄」が「新しい全体」を創ります。
本夜の出来高です。


 イノベーションを実践した人たちには納得される内容です。
これから、イノベーションに挑戦する人に「感得していただければ嬉しい」です。
本夜は、これから挑戦される方たちに向けて綴ってきました。

参考に、『数寄』について語られている「日本語としるしのAIDA」から加筆引用します。
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・・・松岡座長は、最後に、日本語は「創」である、ということをあらためて語った。日本のしるしには、創造性(クリエイティビティ)ではなく創(きず)がある。
きず(創)を負うことと創造との間に、何か本質的なつながりがあるからだ。
「創」とは、「倉」の壁の穴(きず)に「刀」をつっこんで、中をかき回すことである。
世界としるしと言語は一体化しているのだから、みなさんは、創をつけないとだめだ、と。
創をつけると、そこには「新しいロール」や「数寄」が生まれる。それは、イシス編集学校で体現されていることでもある。・・・
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 12月20日(火)の「昭和問答:喪失から創出へ」出版記念トークショーに参加しましたが、
その最後に田中優子さんが語られたのも、「創(きず)」から「創出」でした。
「価値創造」の「創」です。


 新しい価値(創出)には、「創(きず)つけるコト」が必要です。
これは、イノベーションに挑戦した人にしかわからないことかもしれません。
 「15代樂吉左衛門」さんも別格の一人でした。

 2008年、書店に並んだ「CONFORT 100号記念特別号:数寄の現在」を購入しました。
そこには、『数寄』について「松岡正剛×15代樂吉左衛門×川瀬敏郎」の痺れるような対談や隈研吾さん(第326夜)の「建築家が語る数寄の空間」寄稿等が満載された「数寄のお宝の本」でした。

 その「CONFORT 100号記念特別号:数寄の現在」から正剛師匠の「数寄」から引用します。
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・・・数寄はコレクションじゃないと思うんだよね。
寄せるというけれど、集めれば数寄になるかと言うと全然そうとはならない。
もともと「寄」という字も、奇妙の方の「奇」も、刀なんですよ。
 曲刀を必ず二つ置くんです。
そうするとバランスが悪いんですよ。きれいに並ばない。
「奇」とか「寄」というのはその状態なんです。
だからね。おそらく数寄っていうのは茶碗や茶杓や掛け軸集めてみても、アンバランスがあることの方が本質なんですね。
なんか足りないと思える状態が数寄である。
 ずらしたり減らしたり外したり一本抜いたりすることによって、発生というか目覚めというか芽生えがあるんじゃないかと思います。
利休や紹鷗や珠光はそれに気がついた。・・・
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『数寄』と『創造』との関係が感じられましたら幸いです。

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