橋本元司の「価値創造の知・第187夜」:「世阿弥の知・初心不可忘」⑧

2018年11月28日 老後初心不可忘

能を大成させた世阿弥の書「花鏡」の結びとして、「初心忘るべからず」があります。

當流に、萬能一徳の一句あり。
初心不可忘。
此句、三ケ條口傳在。
(しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり)

是非初心不可忘。(是非とも初心忘るべからず)
時々初心不可忘。(時々の初心忘るべからず)
老後初心不可忘。(老後の初心忘るべからず)

世阿弥は、「芸」の向上をはかるものさしとしてこの初心を忘れてはいけない、と記していると想いますが、
いろいろな人達が、さまざまな解釈をされています。
上記の三ヶ条を皆さんの人生にあてはめてみることで、生きた活用ができるのではないでしょうか。

自分の解釈としては、
「目の前に現れる限界や壁をどう乗り越えるのか」その為の「自分の志・情熱」が『初心』だと想うのです。

自分自身の会社人生で云えば、
①新入社員時の「非常識や限界の壁」
②時々に立ち向かう「非常識や限界の壁」
③退職後に立ち現れる「非常識や限界の壁」

「限界」「常識」と思われているものを「超えて」いく。
それが、『イノベーション』であり、『価値創造』です。
二つ目の「時々初心不可忘」の考え方や実践の失敗・成功をこの「価値創造の知」シリーズでは多くを綴ってきました。

100分de名著「世阿弥」の放送の中で、土屋惠一郎さんは次の様に語っています。
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・・・ これから超高齢化社会になっていく日本において、「老いてのちの初心」という世阿弥の言葉は非常に重要な意味を持ってくるでしょう。
寿命が延び、体力的にも元気なお年寄りが増えている。そういった人たちが、どう老いてのちの花を咲かせるのか。そこに、世阿弥の言葉が突き付けていることがあります。
若いころの気持ちに戻ったり、若いころと同じことをしようとしたりするのではない。
そうではなく、あくまでも今の自分の限界の中で何をしていったらもっともよいのかを考えることが必要だ、と。
・・・
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それは、3つ目の「老後初心不可忘」です。
自分も前職・パイオニア社を早期に卒業して、その真っ最中にいます。

それは、第174夜に綴った、下記「林住(りんじゅう)期」(五木寛之著)と交り合います。
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・・・
“古代インドでは、人生を四つの時期に分けて考えたという。
「学生(がくしょう)期」、「家住(かじゅう)期」、そして、「林住(りんじゅう)期」と「遊行(ゆぎょう)期」。
三つ目の「林住期」とは、社会人として務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである”
・・・
“アスリートにたとえれば、「学生期」に基礎体力をつくり、「家住期」に技術を磨き経験を積む。
そして試合にのぞむ。その本番こそが「林住期」だ。人生のやり直しでも、生活革命でも、再出発でもない。生まれてこのかた、ずっとそのために助走してきたのである。”
・・・
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私たちは、リタイアするのではなく、リボーンするのです。
そのための世阿弥の云う『花』を咲かせるための社会の「知」と「仕組み」が不足していますね。

嘆いていても門は開かないので、ご一緒に「リオリエンテーション」(第45夜:自らハシゴを創る)して『初心』を実践しましょう。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ

初心不可忘

橋本元司の「価値創造の知・第186夜」:「世阿弥の知・間(ま)と間(あいだ)」⑦

2018年11月27日 間(ま)と価値創造

「間(ま)」については、第17夜(「間(ま)」と「創造」)、第18夜(「間(ま)」から「ご縁」へ)に綴りましたが、本シリーズで世阿弥に触れていると、更に、絶妙な「間(ま)」というものを次々に感じとることができました。

それは、第180夜の松岡正剛師匠主宰「未詳倶楽部」における大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さんとの出会いから始まりました。
その「複式夢幻能」を観ていても、there(彼岸)とhere(此岸)の能舞台の空間(しつらい)の「間」があり、時を超えた情念、さしかかりの時間の「間」があり、そこでの人との関わり、交わりという人間(じんかん)の「間」があります。

みなさん、普段何気に使っている「打合わせ」という言葉の語源をご存知でしょうか。それも「未詳倶楽部」で学びました。
「打合わせ」とは、囃子方がセッション形式で練習することを言います。能楽の楽器は、笛以外、小鼓や大鼓、太鼓が中心です。互いの音を響かせ、間(ま)を確認し合うこと、それが「打合わせ」です。
世阿弥は舞台に臨む能の声について、「一調・二機・三声」と言いました。能の役者というもの、最初にこれから発する声の高さや張りや緩急を、心と体のなかで整え、次にそのような声を出す「機」や「間」を鋭くつかまえて、そして声を出しなさい。そう、指南しました。

いったい、「間(ま)」とは、何でしょうか?

参考に、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説から引用します。
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日本人には間という微妙な意識がある。名人といわれる落語家の語り口は間のうまさが絶妙だし、剣道では間のとり方が勝敗を決する。日常的にもぼんやりして「間が抜ける」と、約束に「間に合わず」、「間の悪い」思いをする、といったように、間ということばの用法は広い。
このような間の意識には、間取りとか隙間(すきま)といった「空間意識の間」と、太鼓の間とか、間を外すといった「時間意識の間」とがある。
まず時間意識の間からみると、リズムとかタイミングともいいかえられるが、日本の間と西洋のリズムの間にはかなり差がある。江戸時代の『南方録(なんぽうろく)』という本は「音楽の拍子でも、合うのはよいが拍子に当たるのは下手だ。雅楽には峯すりの足というのがあって、拍子を打つ瞬間の峯に舞の足の峯が当たらずに、ほんのわずかずらすのが秘伝だ」と述べている。
機械的な正確さで拍子と足が当たるのではなく、間に短があってその微妙なずれが雅楽をよりおもしろく見せるという。

どうやら日本の間にはリズムやタイミングのずれを喜ぶ不規則性が加味されている。しかもたいせつな点は、西洋のリズムは音や動作を伴う拍子そのものが耳に響くが、日本の間は拍子と拍子のあいだの空白を意識する違いがある。
この空白はからっぽの空ではなく、次の拍子への緊張感を充実させた空である。つまり微妙に伸縮する時間の空白が間であり、それは空間意識の間に通じる。
千利休(せんのりきゅう)は絵画のなかに描き残された空白の部分にわびの美があるといった。絵画や文学の余白、余情という無規定、空白の間に美を認める考えは、日本の建築にも表れる。西洋の大建築では、完全な、しかもバランスのとれた設計図があって細部まで決定されて工事が始まる。
しかし日本の代表的建築である桂(かつら)離宮をみると、初めの計画にはなかった2回の増築によって建物はアンバランスに発展し、現在の姿が完成した。初めから増築の余地が予定されていて、余白(間)に新しい意匠を加えて全体が完成される。日本人の空間意識の間には、余白という無規定性あるいは非相称性が含まれる。
では、どこから日本人の間の発想が生じたのか。間の意識の根底には、日本人が自分と他人との関係を非常に重視する思想があるだろう。本来は人々の世界という意味の人間(じんかん)を日本人は人間(にんげん)という意味に転換させたが、それも、人と人との間柄のなかに人は存在しているという意識の表れだった。
相手と自分の微妙な間柄を表現する謙譲語や敬語が異常に発達したのも日本語の特徴である。あるいは世の中を意味する世間ということばを、自己と世の中の間の社会関係として世間体などと使うのも、他者の目をつねに意識する日本人の社会心理である。
このような相手と自分の間柄(間合い)を重視する土着的な日本人の意識が、人間関係の微妙さを表現するさまざまの文化を生み、空間や時間の間に、西洋にはない不規則性や無規定性などの微妙な変化を鑑賞する日本の伝統文化を創造したとみることができよう。
[熊倉功夫]
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・大事なことは何かと何かの「間(あいだ)」にある

それは、次の様に言い換えることができます。

・「価値」は何かと何かの「間(あいだ)」にある(生まれる)

さて、上記では、空間・時間・人間(じんかん)の「間(ま)」と「間(あいだ)」について記しましたが、
第2夜の「おもてなし」では、
①しつらい=ハードウェア
②ふるまい=ソフトウェア(メニュー・プログラム等)
③心づかい=ハートウェア(ヒューマンウェア)
の3つでできていることをお伝えしました。
①②③のそれぞれと、それらの間(あいだ)をまたぐところに『価値』が生まれます。

自分が、ヒット商品、シナリオ、事業創造、会社ご支援時に、とっても大事にしてきた本来と将来の方法です。

さて、「デジタル時代の教養」からの松岡正剛師匠の対談を加筆引用します。
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・・・
今なぜ、「またぐ」ことが重要なのでしょうか。
学びの基本は、そうした間を「またぐ」ことにあります。そこから、知るべきことや教養が生まれるんです。例えば、政治と音楽です。まったく関係がなさそうに思えますが、またぐことで見えてくるものがあります。
すべての枠が取り払われ、あるいは垣根がなくなり、知が流動化、液状化しているからです。職能も知の一つですが、たとえば花屋さんを考えてみてください。今の花屋さんは単に花を売るだけではなく、ギフト屋でもあり、ライフコーディネーターでもある。そうなると、花の知識が豊富なだけではやっていけません。知のありようが変わると、職能も変化するわけです。
・・・
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「間(ま)」とは、日本人の「空間・時間・人間(じんかん)」のモノ・コト・ヒトの関係性の美意識である、と洞察できます。
それを、いかに上手に①学び接するか、②自分ゴトにするのか、③新しく創るのか、が求められますね。

それが、「価値創造」です。

そのエッセンスが、「世阿弥・風姿花伝」にはいっぱい詰まっています。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
間と間

橋本元司の「価値創造の知・第185夜」:「世阿弥の知・新結合」⑥

2018年11月22日 世阿弥と新結合

現在私たちが能を見て、「これが能らしさだ」と思っている部分の殆どは、実は世阿弥や世阿弥の父・観阿弥がさまざまな芸能の領域から取り入れたものです。
例えば、観阿弥は、歌と舞を併せ持つ曲舞芸という芸能を猿楽に取り入れました。曲舞芸は白拍子の芸とも言われ、これによって、物語の中で役者が謡いながら拍子を取って舞う、ということができるようになりました。
世阿弥は近江猿楽から天女舞というものを導入しました。これは、仏教の阿弥陀来迎図などにある、空を舞う天女のような優雅な舞です。天女舞の導入により、幽玄で美しい舞の要素が加わりました。
このように同時代にあり、人々に好まれていたさまざまな芸能の領域を磁場のように引き寄せ、それらをコーディネーションして、能という一つの枠の中に、今日に続く芸術をつくりあげたのです。(100分De名著:土屋惠一郎引用)

前職・パイオニア社のヒット商品緊急開発プロジェクトで、自分がプロデュースした連続・異業種コラボレーション(第14夜)も同様の方法です。
それは、第32夜にアップしたシュンペーターの云う「新結合」です。
(イノベーションの元祖であるジョセフ・シュンペーターは、イノベーションを「新結合」と呼んで、次のように云っています。
イノベーションとは、『①「モノやコト」が新しく結びつき、②それが新しい価値として社会的に受け入れられて、経済が発展している状態(ing)のコト』➡ 新結合 = New Combination
「アイデアのつくり方」(ジェームス・W・ヤング)は、『アイデアとは既存の要素の新しい組合せ以外の何ものでもない』(第31夜)と記しています)

第183夜の世阿弥の「却来(きゃくらい)の思想」も同様です。
目利かずを惹きつけてこそ、名手であろう。それなら下手な芸(非風)も稽古する必要があるのだろうか。いや、そうではあるまい。世阿弥は「是風」が非風を抱きこむべきだと考えたのである。それをずばり、「却来」(きゃくらい)といった。
「是風」と「非風」を方法で新結合しています。

第182夜の世阿弥の「複式夢幻能」も同様です。
前半と後半で、生者と死者の情念、夢、想いが交じり合う『場(舞台)』『物語』です。
そこでは、負を背負った「幽玄(there・死者)」が「陰」で、「花(here・生者)」が「陽」です。
「there(彼岸)」と「here(此岸)」を新結合しています。「お盆」も同じですね。

第181夜には、「花」について記しましたが、
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」
・秘すれば花(価値)
・珍しきが花(価値)
・新しきが花(価値)
上記の秘伝は、「イノベーティング」と「マーケティング」が新結合しています。

このように、世阿弥の「風姿花伝」には、『新結合の心構えと方法』の秘伝が満載です。

21世紀は『価値のイノベーション』(第111夜、第130夜)の時代です。
『世阿弥』を若い多くの方達に伝えていきたいと思います。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
新結合

橋本元司の「価値創造の知・第184夜」:「世阿弥の知・安住しない」⑤

2018年11月22日 住する所なき

・住する所なきを、まづ花と知るべし。(『風姿花伝』第7 別紙口伝)

「住」とは「安住」のことです。
今の会社の状況や自分の立場や、役割に「安住」して、努力をしないのは、美しくない。常に不安定な立場に自分を置き、精進することこそ美しいという意味。

会社の中では、過去の成功体験に安住してしまい、現状の安定を望み現状維持に保身する上位者がいます。
現状維持ということは、右肩下がりに向かっているということです。
次のステップに挑戦する時に、そのような人達が反対することやわざと足を引っ張ることが往々にしてあります。
会社が傾いている時でさえも・・・。

前職・パイオニア社で、「ヒット商品緊急開発プロジェクト(1995年~)」(第14夜)や「次の柱・事業創出プロジェクト(2006年、2010年)」等で、プロジェクトリーダーをした時には、上位者からのバッシングがありました。詳細は、第128夜に記しています。
それは、異業種コラボレーション(第23夜)、ダイレクト・モデル事業、顧客に囲まれる事業(第20夜)、10年後のパイオニアの将来シナリオ(第15夜)の様に、時代の変化を先取りした戦略企画の提案時に現れます。
問題は、従来の事業では活躍できたのに、進化したビジネスモデルではそれが望めない人達です。それは、「イノベーションのジレンマ」にも記されています。

そして、それはパイオニア社だけではなく、多くの会社に見られることです。ご支援している会社にも初期にはおられます。

今の地位に安住して、次のステップ、次の一手がわからない、判断できない、それを望まない経営陣により、大きな損失・損害を被るのはいったい誰でしょうか?
それは、若い社員の皆さんやご家族です。

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・・・
世阿弥は、今までやってきてうまくいったのだから、これ以上のことはやる必要はない。同じことをやっていればいい、という心こそが駄目だと言っているのです。
これまでは良いことだったとしても、それに安住することで、それが悪いことに変わってしまうことがあるからです。
その成功体験に安住して次の一手を打ち損じ、結局、他社にどんどん追い抜かれてしまう。一度成功したのだから、同じことを繰り返していけば大丈夫だと思うことが、まさに命とりになるわけです。
・・・(土屋惠一郎)
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これを打破しようと、自分と仲間たちが、次の時代の商品・サービスや新事業を提案しました。
それは、従来になかったモノゴトですから、成功するかどうかの証明・確約はできません。
でも、自分たちの中では、「成功する姿」がありありとが観えていたのです。

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・・・
うまくやってきた上司というものは、自分の成功体験をコピーしていればよいという意識にどうしてもなりますから、組織にとっては下手をすると有害な存在になります。
むしろその成功体験を否定して、「いや違う方法がある」という人が出てこなかったら、その組織は結局うまくいかないでしょう。
新たな方法というものは、それまでの成功を否定するものであるかもしれない。でもそれを認めなかったら、組織の成長は止まるのです。
それをどうしても認めない人が伝統的な価値観を主張する場合は、安定や和を保ちたいというより、今までの枠の中の既得権益を守りたいだけかもしれません。
・・・・(土屋惠一郎)
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これは多くの会社の深刻な問題です。
自分はまさにその渦中にいた提案側の当事者だったのでよくわかります。

さて、提案してもわかる上位者とわからない上位者がっいます。
ある時、先輩から云われました。

「ハシモト、○○さんを説得するのは無理だ。納得してもらえばいいのだよ」
首を縦に振ってもらえばOKということ。

そうして、納得して貰って成功したプロジェクトがあります。
勿論、納得して貰えずに、残念ながらオシャカになったプロジェクトもあります。

それは、「未常識」(第29夜)と、「イメージメント」(第7夜:イメージメントとマネジメント)の問題でもあります。
「イメージメント」能力に気づき、高めていただくために、この連載を綴っている側面があります。

「日々、更新すること」(第8夜)が求められますね。

価値創造から「事業創生・地域創生・人財創生」へ
安住しない

橋本元司の「価値創造の知・第183夜」:「世阿弥の知・却来の思想」④

20181121日 「却来」とは何か

 
「却来(きゃくらい)」は何でしょうか。
辞書には、「もとの所にもどること」とあります。
 
「却来」について、松岡正剛師匠の千夜千冊1508夜(世阿弥の稽古哲学〉から引用します。
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・・・
さてところで、能を見る者には「目利き」と「目利かず」がいる。目利きは下手な芸を好まない。目利かずは上手を好まず、下手な芸や粗野な芸をよろこぶ。世阿弥はそういう下手な芸を「非風」と名付けた。
いまでも芸能界やお笑いタレントたちの下手くそな芸をよろこぶのは、テレビを見ていればすぐわかる。イラスト業界では「へたうま」さえもてはやされた。当初、世阿弥を悩ませたのは、この目利かずがよろこぶ非風をいったいどうするかということだった。
 
目利かずを惹きつけてこそ、名手であろう。それなら下手な芸(非風)も稽古する必要があるのだろうか。いや、そうではあるまい。世阿弥は「是風」が非風を抱きこむべきだと考えたのである。それをずばり、「却来」(きゃくらい)といった。
 
却来は禅語である。禅林では「ぎゃらい」と読む。自身が悟りを得るだけでなく、その得たものをもって俗世におりて人々を悟りに誘う覚悟をすること、それが却来(ぎゃらい)だ。仏教的には菩薩道に近い。
世阿弥は却来(きゃくらい)を禅語よりもかなり柔らかくとらえた。芸を究めた者がすうっと下におりることを意味した。編集工学を究めようとしてきたぼくにとって、却来はすばらしい方法の魂を暗示してくれた。
 
かくして万端の準備をあらかた了えた世阿弥は、推挙すべき稽古の順に独自な組み立てをしていった。最初は中くらいの芸の稽古から入って、やがて上位に達し、そのうえで最後に下位の芸を習得するという方法だった。
これによって是風が非風を包みこめることを示した。また、そのような気持ちになれることを「衆人愛嬌」といった。
・・・
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この「却来」の思想は、「価値創造の知」で連載してきた「守破離」(価値創造・第5夜)、「イノベーション」(第17夜)や「マーケティング」に密接に繋がっていることがわかりますね。
 
特に「目利かずがよろこぶ非風をいったいどうするか」
 
というのは、多くの企業や地域が悩んでいるところですね。
それは、「創り手」と「受け手」の双方の課題であり、「創り手」には、「イノベーション(包括)」と「マーケティング(第69夜:伝える力・伝わる力)」の革新が求められます。
 
>「是風が非風を抱きこむべきだ」
 
というのがそれに当たります。
そのようなものを遠ざけるのではなくて、むしろ取り入れて自分なりに編集、価値創造をして、新しいモノゴトに仕上げて打ち出していく。
 
松岡正剛師匠は次に様にも語っています。
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・・・
「却来」の思想は、優れた風儀がつまらぬ「なりふり」を一挙に吸収していくことをいう。くだらなさ、つまらなさ、下品さを、対立もせず非難もせず、見捨てもせず、次々に抱握してしまうのである。
なるほど「能」とは、このようにして万象万障に「能(あた)う」ものだったのである。・・・
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図は、「本来・将来・却来」の三位一体を表しています。「却来」を取り込むことで新しい風景が観えてきました。
 
さて、参考に、上記に関係する自分ゴトを記します。
前職・パイオニア社で、社長直轄の新事業創造室から研究所に異動した時に、社運をかけた「大画面テレビ・プラズマディスプレイ事業」について、シナリオプランニングを使って将来のリスクとチャンスを外部を入れたプロジェクトで検討していました。
・リスクとしては、2004年当時「デル・モデル(デル社がその顧客志向の企業理念に基づいて開発した独自のビジネス・モデル)」が大画面テレビに適用されれば、それは、パイオニア・シャープ・パナソニック等に多大な影響を及ぼす。
つまり、できるだけ早急に「大画面テレビ」市場から撤退したほうがいい、という結論を出しました。結果は、シャープを含め、その通りになりました。
・チャンスとしては、「大画面テレビ」を「インテリアの一部」として把えていこうというものです。そのために、「新事業創造室」時代から、「パイオニア・ダイレクト・モデル」として、物語性を持つインテリアメーカーと異業種コラボレーションをしました。
それは非風ではないのですが、あのビジネスを続けていれば、違った事業展開をして、新しいスタイル、新しい市場を創れたのではないかと思っています。
 
つまり、「却来の思想」を持つことで、新しい道が拓ける可能性があるということです。
次回は、「却来の思想」に関係する世阿弥の「新結合」について綴ります。
 
価値創造から「事業創生・地域創生・人財創生」へ
却来の思想

橋本元司の「価値創造の知・第182夜」:「世阿弥の知・幽玄と花」③

2018年11月17日 「幽玄」とは何か

前夜は、世阿弥が「風姿花伝」で最も大切にする「花」について綴りました。
本夜は、世阿弥の重要なコンセプトである『幽玄』について、自分なりの解釈を交えて記します。

「ゆうげん【幽玄】を辞書で調べると、《「幽」はかすか、「玄」は奥深い道理の意》
① 奥深い味わいのあること。深い余情のあること。
② 奥深くはかり知ることのできないこと。
③ 優雅なこと。上品でやさしいこと。

「100分de名著」の「世阿弥 風姿花伝」での土屋惠一郎さんの解説は、
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なにしろ、すべては「幽玄」でなければならない。乞食姿であっても幽玄をこころがける。狂乱の能であっても幽玄が必要である。
要するに、リアリズムはダメといっている。美しくなければならない。美しいものが能なのだ。
このブランド・イメージを、世阿弥は一代で確立した。能といえば、美しいものになったのだ。期待を裏切らない。美しくないものは登場しない。美しさのためであるならば、たとえ現実とは異なるものであっても、追求してかまわない。どんなに実際と同じであっても、美しくなければ能ではない。そう世阿弥ははっきりといった。
・・・
世阿弥は、「理想の能」を語る時、『幽玄』であるという一点は絶対譲らなかった。
・・・
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・玄侑宗久さんは、「幽は“かすか”とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のこと」と語っています。
・松岡正剛師匠は、 「方丈記」では、「幽玄」とは、目には見えないけれども、 そこはかとなく心に感じ入るような感覚が起こることであると説明しています。

『幽玄』の輪郭がみえてきましたね。

世阿弥の確立した「複式夢幻能」は、生者と死者の情念、夢、想いが交じり合う『場(舞台)』『物語』です。
自分は、そのような複式夢幻能の奥に見え隠れする道理・世界が『幽玄』だと想うのです。そこ(分母)から「花(華)」を見せる・魅せる(分子)という構造が腑に落ちます。
整理すると、「幽玄」が分母で、「花」が分子です。そうすると、体系がみえてきます。

さて、「老子の知・陰陽論」(第179夜)に、陰陽の図を載せましたが、「幽玄」と「花」をそこに当てはめてみるとこれもフィットします。
陰陽論では、内へ内へと入ってくる受動的な性質を「陰」、外へ外へと拡大していく動きを「陽」とします。
負を背負った「幽玄(there・死者)」が「陰」で、「花(here・生者)」が「陽」です。

万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す
(訳:世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる)

『冲気(陰と陽の気を作用させること)』が、「複式夢幻能」の後半の見せ場、魅せ場です。
このように、「世阿弥の知」と「老子の知」が繋がることで自分の世界が広がります。

「わかることは変わること」(第8夜)
これが「価値創造&イノベーション」の始まりです。

このように、「風姿花伝」には、「価値創造」に関するヒントが息づいています。
それもあって、次夜は「世阿弥」と「ビジネス」の関係について綴ろうと思います。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ

世阿弥③

橋本元司の「価値創造の知・第181夜」:「世阿弥の知・風姿花伝」②

2018年11月15日 風姿花伝の「花」とは、「価値」のことである。

2014年新春に、NHKの「100分de名著」という番組で「世阿弥 風姿花伝」が放送されました。
そこでの土屋惠一郎さんの解説が、現代の問題や「イノベーション&マーケティング」に参考となるとても刺激的な内容でした。
それは、前職・パイオニア社での革新活動ともマッチングするものであり、現職のコンサルティングにも活用できるものでした。
放送の一部を加筆引用します。

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・・・
ドラッカーはその代表作『マネジメント』の中で、イノベーションとは
・「物事の新しい切り口や活用法を創造することだ」
と語っています。

・・・
一方世阿弥は、
・「人々を感動させる仕組みとして新しいものや珍しいものこそ花である」、
すなわち「珍しきが花」
ということを語っています。
これは文字通り、「珍しいものに人は感動する」ということです。

この「珍しきが花」が腑に落ちた時、そうか、これこそがドラッカーの語るイノベーション理論なのではないかと気づいたのです。
・・・

世阿弥の言葉は、現代の競争社会を生きる私たちにとっても有効なメッセージを伝えてくれる。私はそう感じています。
世阿弥が生きた室町時代も、のちに戦国時代へと突入する不安定な時代でした。能を取り巻く環境も、安定した秩序を重んじるものから「人気」という不安定なものに左右される競争に移っていった時代です。

そのような時代を生きた世阿弥の言葉は、同じように不安定な現代を生きる私たちにたくさんのヒントをくれます。
しかも、世阿弥の言葉は驚くほどわかりやすいのです。注釈や現代語訳がなくとも、大意はそのままつかむことができます。

・・・

『風姿花伝』は、世阿弥が父から受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書いたものです。
それは、能役者にとってのみ役立つ演技論や、視野の狭い芸術論にとどまってはいません。世阿弥は、能を語る時に世界を一つのマーケットとしてとらえ、その中でどう振る舞い、どう勝って生き残るかを語っています。つまり、『風姿花伝』は、芸術という市場をどう勝ち抜いていくかを記した戦略論でもあるのです。
そこには、イノベーションとマーケティング心得と方法のヒントがいっぱい詰まっています。

さて、この「価値創造の知」連載で綴ってきましたように、

「工業・情業時代→脳業(AI)・興業時代(第109夜、第169夜)」

へとパラダイム(枠組み)が大きく変わる不安定な時代を私たちは生きています。
是非、多くの方達に「能&世阿弥」を体感して欲しいと想っています。

そして前夜にも記しましたが、自分の解釈では、『風姿花伝』の『花』とは、「価値、及び、価値創造」のことを指している、と云い切ります。
その切り口で読み解くと、「世阿弥」が「風姿花伝」が頭と心身に入ってつながって現代に甦ってきます。
さてさて、世阿弥は「能」にとってもっとも大切なものを「花」という言葉で象徴しました。
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」

・秘すれば花(価値)
・珍しきが花(価値)
・新しきが花(価値)

謡、踊り、囃子、装束、物語、舞台のどこかしこに「花(華)」が見え隠れしています。
もし、可能であれば、幽玄の能舞台で世阿弥と対話してみたい。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
世阿弥2

橋本元司の「価値創造の知・第180夜」:「世阿弥の知」①

2018年11月14日 能と価値創造

世阿弥は、室町時代に『能』を大成した人物として知られています。
『風姿花伝』は有名ですが、その「花」とは「価値創造」のことを云っています。
本夜から、世阿弥の知を「能と価値創造」の関係で綴っていきます。

『能』と自分との本格的出逢いは、松岡正剛師匠主宰の「未詳倶楽部」にありました。
・1回目は、大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さん
・2回目は、安田登(やすだ のぼる)さん(下掛宝生流ワキ方能楽師)

2000年、未詳倶楽部の特別ゲストが、囃子大倉流大鼓方能楽師の人間国宝・大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さんという大鼓(おおつづみ)打ち手の達人でした。
初日の深夜の空間では、自分から2メートルの至近距離から、大倉さんのソロの大鼓(おおつづみ)が響きました。その「幽玄」を身をもって堪能しました。
2日目は、大鼓(おおつづみ)を素手で打たせてもらうという体験もしました。「響打」の奥義がほんの少し体感できたように想いました。

その興奮を持って、2000年8月8日、大倉さんと松岡正剛師匠がプロデュースする「五番能」(五番立)と呼ばれる本格的な形式での能公演(宝生能楽堂)に行きました。

「翁附五流五番能」に寄せた松岡正剛師匠のテキストを引用します。
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「観能から官能へ~こんな一部始終を見てみたかった」松岡正剛(編集工学研究所所長)

いまどき五番能が見られるだけでも珍しい。
それが五流が揃い、さらに「翁」が付いている。
神事から始まって、しだいに修羅へ、切に突き進む。
異例中の異例な出来事だといってよい。
その翁附五流五番能を、一度も演能祭事のどこにもかかわったこともない私が、なんとも提供する側になるとはおもわなかった。

すべては大倉正之助の六輪一露なのである。
いやいや二輪双輪のエネルギーが飛び散ったせいである。
細部に関してはまことに面食らうばかりであるが、ただただ大倉正之助の邁進の企画に呼応して、拍子を合わせた。
はからずも打ち合わせたというしかない。
なにしろたった一人で大鼓を打ち続けようというのだから、これは放っておけぬのである。
しかし、一介の囃子方にすぎない大倉正之助の魂が実現させたこの五流五番能は、前代未聞の試みでありながらも、実は能を初めて見るような人々にこそ開かれている。
私としては、これを機会に能狂言の持つ意味が一途に見所にいる人々の心を奪っていくことを願ってやまない。
そこには「日本」というもののいっさいの不思議が現前に漂泊しているからだ。

実は能というもの、まことに不合理にできている。
ありていにいえば不便にできている。
たとえば面は、わずかに前方は見えるものの、他の視界を許さない。
その面の動作もテル・クモル・キルなど、ごくわずかな動きに限定されている。
音楽としてとらえてみても、小鼓は湿らせなければいい音が出ないし、大鼓は焙じて乾かす必要がある。
だいいち、アンサンブルとしての基準音は最初の能管の一吹きがあるまでは、決まらない。
こんな音楽は西洋の合理では考えられないことである。
リズムとしての拍子だって、大きなフレーズごとにインとアウトが決まっているものの、あいだはまちまちである。
だからこそ、そこに間というものが躍り出す。
一調二機三声が動き出す。

登場人物も、多くが現在にはいないことによって現在を示すというような、そんな奇妙な設定の中にいる。
そこで、そこには現代哲学こそが主題にしそうな「不在の時間」というものが出現するのだが、ではその時間が舞台をそのまま支配するのかというと、その不在すらもあとかたもなく消えていく。
舞の基本もカマエとハコビだけである。
そんなことでよくも感情が表現できると思うだろうが、けれども、そこにヒラキが加わるだけでも、引きつめた緊張は横超し、悲嘆は爆風をおこすかのようなのだ。
装束もまた、そのようなあまりにも省かれた劇空間と劇時間を暗示するかのように、長絹・舞衣・狩衣・直衣のいずれもが、行方定めぬ風をはらむばかりとなっている。

こうした不合理や不便を象徴しているのが能舞台そのものであり、能なのである。
その不便をわずかなキマリが支えている。
たとえば、橋からやってきた者は橋から去っていく。
これは、かれらが彼方からの去来者であることを訴える。
たとえば五番能の二番目は修羅能というものであるが、これは世阿弥が二曲三体と言った、その老体・女体・軍体のうちの軍体を見せている。
修羅の能は平家物語を背景とした「いくさがたり」がルーツなのである。
もっと単純なことをいえば、だいたい舞台は誰も隠れるところがない。
すべては見所から見通しであって、そこには真の意味での「一部始終」というものがあるばかりなのだ。
しかしそれゆえにこそ、キマリは奥深くなっていく。
いっさいのキマリが見えているようで見えていず、見えないようであらわれてくる。
その僅かな出処進退が、能舞台をおそろしく絢爛とも、幽玄とも、またヴァーチャル・リアルともさせるのである。
そのダイナミックな有為転変は、不合理や不便によって生まれたのであった。
私は、その奇妙な矛盾の解放をこそ見てほしいとおもう。
そこに能狂言が培ってきた乾坤一擲の「存在の告示」があることを見てほしい。
それこそがいま「日本」に欠けているものなのである。

ところで今日の演目には、いずれの物語にも「水」がからんでいる。
この「水」は流れであって、生命の若水であり、そして自然と人知を循環する媒体である。
大倉正之助が八年前に、これらの水を湛えた演目をしたかったという意志をもったことにちなみ、今日の一日を「如水の昼夜」とよぶことにした。

また、今日一日の出来事には、人機が一体となって感応するオートバイの魂のようなものが、そこかしこに象徴化されている。
なぜ能とオートバイが重なったのかということをここで述べている紙数はないが、きっと今日の日が終わるまでには、その人機一体の官能が実は観能でもありうることを、ひたひたと感じられるのではないかとおもう。
私が、早朝の「翁」が始まる前に言えることはねいま、これだけである。
いろいろな「一部始終」を観能し、官能し、堪能していただきたい。

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上記のテキストを見ることだけでも、深み・高み・広みが伝わってきますね。
プロデュースされた『別格の一流』を観能し、官能し、堪能してきました。
そのような直截的・直観的な体験と知が、「価値創造」には肝要です。

さて、「能」舞台の橋の向こう側は、there・彼岸です。
複式夢幻能において、能舞台は、死者と生者が交じり合っている「場」なのです。
舞台の正面には、「松」の絵が描かれていますが、ということは観客席は「海」にいることになります。つまり、私たち観客は、there・彼岸から観ているのです。
そのような「しつらい」を認識して身を置いて「能」に対した時に、目の前の風景・情景が変わってきます。
そこには、「生と死」の狭間の情念と夢と想像が行き交います。

本夜は、世阿弥のことは、まだ記していません。
自分にとっての「能」との切っ掛けから綴りました。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
世阿弥

橋本元司の「価値創造の知・第179夜」:古典「老子の知・陰陽論」③

2018年11月12日 「間(ま)と陰陽」の関係

万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す
(訳:世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる)

老子・第42章では、価値創造の核となる「新結合」(第32夜:イノベーションと価値創造)の極意が著されていました。
それは、即イノベーションに直結します。

それでは「陰陽」を現代の事象でみてみましょう。、
・「ビール」に於いて、「コク」と「キレ」は矛盾します。
・「サービス」に於いて、価格(安さ)と品質(時間)は矛盾します。
・「労働生産性」に於ける、労働時間と生産性は矛盾します。
・・・

相反するモノゴトを新結合することで、新しい価値は創出されます。多くの業界が直面している課題ですね。
自分の会社や地域に置き換えて考えてみてください。

さて、第17夜には、「間(ま)」と「創造」の関係性について記しましたが、同じことを云っています。
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①第17夜:「間(ま)」とは何でしょうか?
・・・
「間」は日本独特の観念です。ただ、古代初期の日本では「ま」には「間」ではなく、「真」の文字が充てられていました。

真理・真言・真剣・真相・・・

その「真」のコンセプトは「二」を意味していて、それも一の次の序数としての二ではなく、一と一が両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたそうです。
「真」を成立させるもともとの「一」は「片」と呼ばれていてこの片が別の片と組み合わさって「真」になろうとする。「二」である「真」はその内側に2つの「片」を含んでいるのです。

それなら片方と片方を取り出してみたらどうなるか。その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間」なのです。
・・・
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②老子・[第42章]
道生一、一生二、二生三、三生萬物。
萬物負陰而抱陽、冲気以為和。
(道一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
万物影を負いて陽を抱き、冲気を以て和を為す)

(前半の)最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したのが「一」としての気。
さらにそれが陰陽の二つに分かれて、「二」となり、冲気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」となり、そこから萬物が生まれてくる。
「無」からすべてが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、
なにもないのではなく、ありとあらゆる可能性を含み持つ状態だとしたのです。(訳:蜂谷邦雄)

(後半)世の中に誕生したものはすべて「陰」と「陽」という矛盾した二つの要素を内包している。それを「どちらを取るか」という二者択一の発想ではなく、
こころを空っぽにして「陰陽両方を取る」という心持で、没頭没我の状態で物事に取組むことが大事である。そうすれば矛盾を乗り越えることができる。
(古代中国で生まれた自然哲学の基礎概念に「陰陽論」というものがあります。万物には、「陰」と「陽」という背反する二つの側面が必ず存在しているという考え方です。
陰陽論では、内へ内へと入ってくる受動的な性質を「陰」、外へ外へと拡大していく動きを「陽」とします。
世の中に「存在しているもの」あるいは「起こっている現象」というのは、すべて陰陽後半双方の性質を持っており、当然よい面もあれば、悪い面もあり、よい時期があれば、悪い時期もある。そうした構造になっているのです。
これが陰陽論の基本的な考え方です)訳:田口佳史
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①「間(ま)」と、②「道生一、一生二((道一を生じ、一は二を生じ)」とは根本で同じことを云っているのが分かりますね。

「矛盾する、相反する二つの要素が交じり合う、紛らかすことで価値が生まれる」

というのが価値創造の重要な視点です。

近代西洋的思想は、モノゴトを部分化、細分化、論理化した二者択一的な発想でした。
そうやって、物不足の20世紀後半の成長がありました。

21世紀の成長には、西洋思想に不足している下記の「知の意識改革」が必要です。

それは、日本流の
・間(ま)
・縁

・禅
・和
・おもてなし
という空間、時間、心が交じり合う世界です。
それは、日本文化の「宝」であり、価値創造の「源」です。

これまでの「価値創造の知」連載に綴ってきました。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
陰陽

橋本元司の「価値創造の知・第178夜」:古典「老子の知、孔子の知」②

2018年11月11日 老子と孔子

自分の場合は、「道(タオ)」とは、すべてのモノゴトの「大元:天地万物を生み出す原理(=空=道)」と読み解くと「老子思想」がすんなりと入ってきました。
第6夜に綴った「色即是空 空即是色」の「空(クウ)」が「道(タオ)」と同一だと見切った時に、釈迦と老子の新しいつながり、新しい知が芽生えます。

柔道、剣道、相撲道、茶道、華道等々、私たちが普段目にする「・・道」というのもそこにつながるように思いませんか。

それは私たちの生き方の根本なので、「老子思想」を読むと、現在のモノゴトの見方を超えた「新しい視点・視座」に気づかせてくれます。
それは「深い知」(第77夜、第85夜)であり、奥を究めることでもあります。その事例、参考例は、第28夜(新しい目的をつくる)、第170夜(Think outside the box:箱を出る)に綴りました。
とっつきにくかった「老子」が、「道(タオ)」を語りかけてくれるようで、2千数百年をタイムスリップして親近感を覚えます。

さて、同時代を生きていた「孔子」と「老子」を自分なりの視点で並べてみました。

◆「老子」
①道家:自然に、あるがままに生きること
②思想:負(引いて、削いでいく)
③活用時期:衰退期~新導入期(オルタナティブ)
④書物:哲学書

◆「孔子」
①儒家:理想に向かい現実的に生きること
②思想:礼(定まった形式を重んじる)
③活用時期:成長期~成熟期
④書物:実用書

新しい気づきがありワクワクしましたこのような連想が数寄なのです。

「孔子」は、自分が中学や高校の時に、教科書でよく見かけました。
「人は努力によって進歩すれば、必ずいつか報われる」

1960年代の「高度成長期」の様に、何をするべきか見えている「成長期」に「孔子」は向いていたように思います。御茶ノ水駅近くの「孔子廟 湯島聖堂」にも行きました。

さて、日本の企業は、高度成長から成熟・衰退に向かい、現在は、脳業(AI・Robot)・興業に向かうパラダイムシフト(第7夜、第109夜:農業⇒工業⇒情業⇒脳業⇒興業の時代)の真っ只中にいます。
このような時代にフィットしているのは、「老子」「釈迦」のように直感します。

なぜならば、それはあらゆる考え方の大元(おおもと)であり、源泉が変革期にはどうしても必要だからです。。

「老子」と「孔子」はどちらが優れているということではありません。思想としての軸足が違うので比較するのは適当ではありません。

さてさて、「老子」は、「老子道徳経」とも呼ばれていて、「道(タオ)」だけでなく、「徳(トク)」についても記されています。
企業からのご支援では、『次の一手』を検討する際に、すべてのモノゴトの「大元:天地万物を生み出す原理」(=深い知)に想いをめぐらします。

その時に肝要の指針が『真善美』です。

「人に役立つ、社会に役立つ」

という「価値創造の原点」に向かうときに『徳』が内包されています。

「真善美」に至り、そこから「構想・行動・実践」に向かう時に必要になるのが『徳』です。「道」と「徳」は、思想と行動の合わせ鏡です。
双方に立ち向かい実践できる会社が、これからの「真の21世紀企業」です。

価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
老子と孔子